SES単価の値上げ交渉を法的に通す方法|労務費転嫁指針と取適法で「協議拒否」は許されなくなった

「エンジニアの給与は毎年上げているのに、客先の単価は3年間一円も上がっていない」――SES事業を営む経営者の方から、最も多く聞く悩みの一つです。人件費の上昇分を単価に転嫁できなければ、粗利は年々薄くなり、優秀なエンジニアを引き留めるための昇給原資も枯れていきます。

しかし、この状況は法律のレベルで大きく変わりました。2023年に策定された「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」(労務費転嫁指針)が2026年1月1日に改正され、同日に施行された取適法(中小受託取引適正化法)では、受注側からの協議の求めに応じずに一方的に代金を決める行為が明確に禁止されたのです。単価交渉は、もはや「お願い」ではなく「法が要請する協議」になりました。

本記事では、元IT企業経営者でもある弁護士の立場から、SES単価の値上げ交渉を法的な裏付けをもって進める方法を、交渉の手順、根拠資料、申入れ書面の書き方、契約条項の備えまで具体的に解説します。

この記事の結論
労務費転嫁指針により、発注者は「受注者から求めがなくても定期的に協議の場を設ける」「公表資料に基づく希望価格を合理的根拠のあるものとして尊重する」ことが求められています。 取適法(2026年1月施行)では、協議の求めに応じない、必要な説明をしないまま一方的に代金を決める行為が禁止行為として新設されました。

指針の改正で、価格の据え置きがこれに当たり得ることが明記されています。
SES企業が採るべき手順は、
①更新時期から逆算したタイミング設定
②公表資料に基づく根拠の整理
③書面での協議申入れ
④協議記録の保存
⑤応じない場合の段階的な対応

の5ステップです。
契約書には単価改定の協議条項を入れ、自社が発注側になる場面(協力会社・フリーランス)では同じルールを守る側に回ることを忘れないでください。

なぜ今、単価交渉の「ルール」が変わったのか

労務費転嫁指針とは

労務費転嫁指針は、内閣官房と公正取引委員会が2023年11月29日に策定した指針です。原材料費やエネルギー費と比べて価格転嫁が進みにくい「労務費」について、発注者と受注者がそれぞれ採るべき行動を示しています。発注者に求められる行動の要点は次のとおりです。

発注者に求められる行動内容
経営トップの関与労務費上昇分の転嫁を受け入れる方針を経営トップが決定し、書面等で社内外に示し、定期的に報告を受ける
定期的な協議の場受注者から要請がなくても、年1回や半年に1回など定期的に協議の場を設ける
説明・資料要求の制限求める根拠資料は最低賃金の上昇率や春季労使交渉の妥結額など公表資料に基づくものとし、受注者が公表資料で提示した希望価格を合理的根拠のあるものとして尊重する
サプライチェーン全体直接の取引先だけでなく、その先の取引先における労務費の適正化も意識する
協議への参加と不利益取扱いの禁止転嫁の要請があれば協議に応じ、要請したことを理由に取引を打ち切るなどの不利益な取扱いをしない
考え方の提案受注者からの申入れが稚拙であっても、必要に応じて労務費転嫁に係る考え方を提案する

指針は法律そのものではありませんが、指針に反する行為は独占禁止法の優越的地位の濫用や、取適法の買いたたきとして問題になり得ると明記されています。指針に沿って行動している限り法的な問題は通常生じない、という位置づけです。

取適法との連動―価格の据え置きが「違反」になり得る

2026年1月1日に施行された取適法は、禁止行為として「協議に応じない一方的な代金決定」を新設しました。中小受託事業者から代金の協議を求められたにもかかわらず、協議に応じない、あるいは必要な説明や情報提供をしないまま一方的に代金を決めて、受託側の利益を不当に害する行為です。

同じ日に労務費転嫁指針も改正され、受注者からの協議の求めに応じずに価格を据え置く行為が、この禁止行為に該当し得ることが明記されました。
「求めを無視する」「協議の実施を繰り返し先延ばしする」「形式的に場を設けるだけで実質的な検討をしない」といった態様が問題となります。長年の単価据え置きは、それ自体が法的リスクを帯びる時代になったのです。

情報サービス業は「注意喚起の多い業種」

公正取引委員会は毎年、価格転嫁の状況について大規模な特別調査を行い、協議を経ずに価格を据え置いた発注者に注意喚起文書を送付し、悪質な場合は企業名を公表しています。
令和7年度の調査では、独占禁止法の観点から4334名、労務費転嫁指針の観点から9747名に注意喚起文書が送られ、情報サービス業は注意喚起の多い業種の一つとして名指しされました。また、多層構造のサービス業ほど、サプライチェーンを遡るにつれて転嫁の受諾率が下がる傾向も指摘されています。まさにSES業界の構造そのものです。行政の目は、すでにこの業界に向いています。

SES単価が上がらない構造と、法律が変えた前提

SESの単価が上がりにくいのには、業界固有の構造があります。元請から2次請け、3次請けへと商流が長く、各段階でマージンが抜かれるため、末端の会社は「上が上げてくれないので上げられない」と言われ続ける。
契約は3か月や6か月の自動更新で、単価を見直す機会が形式的にしか設けられない。そして交渉の材料が「うちも苦しいので」という自社の事情しかない。これらの前提が、指針と取適法によってどう変わったのかを整理します。

論点従来の実態指針・取適法のもとで
交渉の位置づけ受注側からの「お願い」受注側には協議を求める根拠があり、発注側には協議に応じる義務に近い要請がある
交渉のきっかけ受注側が言い出さない限り据え置き発注側が定期的に協議の場を設けることが求められる
根拠の示し方自社の苦しい事情を訴える最低賃金や春闘妥結率など公表資料に基づく希望価格が合理的根拠のあるものとして尊重される
無視・先延ばしよくあること協議に応じない一方的な代金決定として取適法違反になり得る
上流の事情「元請が上げないから無理」で終わるサプライチェーン全体での転嫁が発注側の行動指針に含まれる
記録口頭のやり取りで残らない協議の記録を双方が作成・保管することが求められ、記録が受注側の武器になる

値上げ交渉を通す5つのステップ

ステップ1.タイミングを設計する

SES契約の多くは3か月または6か月の期間で自動更新されます。更新日の直前に切り出しても、発注側の予算はすでに固まっています。更新日の2〜3か月前に申し入れるのが基本です。加えて、春季労使交渉の結果が出そろう4月から5月、最低賃金の改定額が公表される8月前後は、根拠資料が新しく、発注側も社内で説明しやすい時期です。指針が発注側に求める「定期的な協議の場」があるなら、そこに合わせて資料を準備しておきます。

ステップ2.公表資料で根拠を組み立てる

指針は、発注側に対して「公表資料に基づく希望価格を合理的根拠のあるものとして尊重する」ことを求めています。つまり、自社の決算や給与台帳を開示する必要はなく、公的な統計を根拠にすればよいのです。

根拠資料使い方
春季労使交渉の妥結額・上昇率2026年の連合集計では賃上げ率が全体で5%台、300人未満の中小組合でも5%台と、3年連続で5%を超える水準。「業界水準の賃上げに追随している」ことの根拠になる
都道府県別の最低賃金・上昇率2025年度は全国加重平均が1,100円を超え、引上げ額は過去最大。若手エンジニアや事務職の賃金底上げの根拠になる
毎月勤労統計調査(厚生労働省)産業別の賃金指数の推移。情報通信業の賃金上昇を示す補助資料
ハローワーク等の求人情報同業他社のエンジニア募集賃金。採用競争上の必要性を示す補助資料
社会保険料率の改定法定福利費の上昇分は、賃上げ分に加えて転嫁対象に含める

希望単価の算定は、「現行単価×(1+賃上げ率)」に法定福利費の上昇分を加える、という単純な式で十分です。細かい原価計算を求められても、指針上、発注側が求めてよい資料は公表資料に基づくものに限られます。

ステップ3.書面で協議を申し入れる

口頭や雑談の中で「上げてもらえませんか」と言うだけでは、後から「協議を求められた」ことを立証できません。取適法上、協議の求めは書面に限られず、単価を引き上げた見積書を提出するなど協議の意図が客観的に分かるものも含まれますが、実務ではメールまたは書面で明確に申し入れるのが確実です。次のような構成で十分です。

単価改定に関する協議のお願い(構成例)
件名:〇〇案件における契約単価の改定協議のお願い
1.現行の契約内容:案件名、契約期間、現行単価、更新予定日
2.改定をお願いする背景:春季労使交渉の妥結状況、最低賃金の改定、社会保険料率の改定などの公表資料に基づく労務費の上昇(数値と出典を添付) 3.希望単価と算定の考え方:現行単価×(1+賃上げ率)+法定福利費の上昇分
4.協議のお願い:更新日の〇か月前である〇月〇日までに協議の場を設けていただきたい旨
5.根拠:労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針(内閣官房・公正取引委員会)に基づくお願いである旨を一文添える

ポイントは、感情的な訴えではなく、公表資料と算定式だけで組み立てることです。指針に言及するのは、脅しではなく「この申入れは行政が求める手続に沿ったものである」と示すためです。相手の担当者が社内で稟議を上げやすくなる、という効果もあります。

ステップ4.協議の記録を残す

指針は、価格交渉の記録を発注者・受注者の双方が作成し保管することを求めています。申入れの日付、相手の回答、協議の日時と出席者、提示された条件、先延ばしされた場合はその経緯――これらをメールや議事メモで残してください。記録があることで、「協議に応じなかった」事実を後から示せるだけでなく、次回の交渉で「前回はここまで合意した」という出発点を作れます。

ステップ5.応じてもらえない場合の段階的な対応

申し入れても無視される、先延ばしされる、形だけの協議で終わる。そうした場合の対応は、段階を踏むことが重要です。

第1段階:相手の担当者レベルで止まっている場合、指針が経営トップの関与を求めていることを踏まえ、相手の上位者への協議を書面で求める

第2段階:公的な相談窓口(下請かけこみ寺、公正取引委員会・中小企業庁の相談窓口など)に相談し、対応の選択肢を確認する

第3段階:取適法の対象取引であれば、協議に応じない一方的な代金決定として公正取引委員会・中小企業庁・所管省庁への申告を検討する

申告をためらう理由の多くは「取引を切られるのではないか」という懸念です。取適法は、申告したことを理由とする取引停止などの報復措置を禁止しており、指針も転嫁要請を理由とする不利益な取扱いを禁じています。とはいえ、実際に取引関係が悪化するリスクをゼロにはできません。どの段階まで進めるかは、案件の依存度や今後の受注見通しを踏まえ、弁護士と相談しながら判断するのが現実的です。

契約書側の備え――単価改定を「条項」にしておく

交渉を毎回ゼロから始めないために、基本契約書に単価改定の仕組みを入れておくことをおすすめします。

条項設計のポイント
単価改定の協議条項いずれの当事者も単価の改定を申し入れることができ、相手方は申入れから一定期間内(例:30日以内)に協議に応じる旨を定める
労務費の変動を考慮する旨最低賃金の改定、春季労使交渉の動向、社会保険料率の改定など労務費に影響する事情の変動を、改定協議において考慮する旨を明記する
定期見直しの時期毎年〇月を単価の見直し時期と定め、発注側から協議の場を設ける旨を定める(指針の「定期的な協議の場」に対応)
契約期間と更新自動更新条項には、更新前の一定期間内に単価協議を行う旨を組み合わせる
協議不調時の扱い協議が調わない場合の現行単価の暫定適用と、その期間の上限を定めておく

条項があっても、相手が応じなければ意味がないと思われるかもしれません。しかし、契約上の協議義務に反して協議を拒む行為は、取適法上の問題に加えて契約違反の問題にもなり、交渉上の立場が明確に強くなります。

自社が「発注側」になる場面を忘れない

SES企業の多くは、元請から受注すると同時に、協力会社やフリーランスのエンジニアに発注しています。上流に対して単価協議を求める権利があるのと同じように、下流からの協議の求めには自社が応じなければなりません。
取適法の従業員数基準(役務の内容に応じて100人または300人)に該当すれば取適法の規制を受け、フリーランスへの発注はフリーランス法の規制も受けます。

上流から単価が上がらないうちは下流にも回せない、という事情はあるでしょう。それでも、協議の求めを無視することだけは避けてください。協議に応じ、上流との交渉状況を説明し、上がった分を順次反映する姿勢を示すことが、法的リスクを避けると同時に、エンジニアと協力会社から「選ばれる発注元」になる道です。

やってはいけないこと
根拠を示さない一律の値上げ通告:協議ではなく通告になり、相手の反発を招くだけでなく、自社が発注側の場面では一方的な代金決定と評価されかねません。
「公取委に言いますよ」という脅し文句:申告は正当な権利ですが、交渉の入口で持ち出すと関係が壊れます。指針への言及は手続の正当性を示すにとどめてください。
口頭だけの申入れ:協議を求めた事実が残らず、後から何も主張できません。 下流への協議拒否:上流に権利を主張しながら下流の求めを無視する会社は、法的にも評判の面でも最も危険です。

元IT企業経営者としての視点

中野弁護士の視点 IT企業を経営していた頃、単価交渉は年に一度の憂鬱な行事でした。こちらの事情を説明しても「他社さんは据え置きで受けてくれている」の一言で終わる。今振り返ると、交渉が通らなかった最大の理由は、根拠が「自社の事情」しかなかったことです。
指針が求める公表資料ベースの交渉は、相手の担当者にとっても「社内で通しやすい材料」になります。交渉相手を敵ではなく、稟議を上げる同僚のように扱う。これが経営者時代に気づけなかった視点です。
もう一つ、法律家として強調したいのは記録の力です。申入れの書面と協議の記録が残っているだけで、相手の対応は目に見えて変わります。取適法と指針は、記録のある会社にしか味方してくれません。まず今日、次回更新の案件について、根拠資料を添えた協議申入れのメールを一通送ることから始めてください。

まとめ

労務費転嫁指針(2023年策定・2026年1月改正)と取適法(2026年1月施行)により、受注側からの協議の求めに応じない価格据え置きは法的リスクを伴う行為になりました。

情報サービス業は公正取引委員会の特別調査で注意喚起の多い業種として指摘されており、SES業界の多層構造はまさに行政が問題視している構造です。

値上げ交渉は、タイミングの設計、公表資料による根拠、書面での申入れ、協議記録、段階的な対応の5ステップで進めます。

基本契約書に単価改定の協議条項と定期見直しの時期を入れておくと、交渉の出発点が変わります。

自社が発注側になる場面では、同じルールを守る側に回ることを忘れないでください。

単価交渉・SES契約の整備のご相談はこちら
単価交渉を法的な裏付けをもって進めるには、協議申入れ書面の作成、根拠資料の整理、協議記録の設計、そして相手の反応に応じた次の一手の判断が必要です。また、基本契約書への単価改定条項の追加や、協力会社・フリーランスへの発注体制の整備は、一度整えて終わりではなく継続的な運用が求められます。
一般社団法人SES事業化適正化協会では、元IT企業経営者である弁護士が、SES事業の商流と交渉の現場感覚を踏まえてご支援しています。120社以上の顧問実績があり、ご相談には24時間以内に回答しています。